As told to Brandon Stosuy, 124 words.
Tags: Music, Art, Culture, Adversity, Anxiety, Inspiration, Politics.
Anohniが語る、芸術とビジネスと音楽業界
Hopelessnessのライブツアーは、コンセプチュアルでアーティスティックなイベントとして表現されていました。これは、あなたの音楽とアートの世界を一つにするための手法だったのでしょうか?
ある意味そうかもしれません。公共の場でパフォーマンスをするという行為によって、音楽は芸術創作とかなり違うものになります。自分にとってより面白みのあるパフォーマンスの方法を最近模索しています。ステージの上では、動作主性の感覚が爽快に感じられますが、それは同時に破壊的でもあります。特にライブパフォーマンス中は、必然的に放たれた音の分だけ身体が消費の対象となります。その結果に満足した試しは滅多にありません。絵を描くときには、何を表現したいかを正確に判断できます。しかしライブでは、私自身がそのパフォーマンスに囚われ、身体が音楽に縛られてしまう事もあるのです。
Anohni, Paradise/Exodus (mixed media), 2016. Photo by: Philipp Ottendörfer. Courtesy Kunsthalle Bielefeld
また、Hopelessnessのライブでは、プロジェクションに焦点を置いていました。それはスポットライトを自分自身ではなく、パフォーマンスの別の側面に当てるためでもあったのですか?
自分の作品をデザイン出来るようにしたいのです。パフォーマンスにおける私の身体は、ロールシャッハの様に感じることもあります。それは私のデザインではなく、違和感を感じるのです。なので最近は、「私の音楽に投影するイメージは自分で選ぼう。常に自分自身が前列の中心にいるという期待に応える必要はないんだ。」と、思うようになりました。
でも最終的にはポップスなのでね。尊厳や冷静さを保つのが難しい場面も多くあります。正直何と言っていいか分からないです。この音楽業界というものは、ますます難しい仕組みになっていると感じます。ここ15年の間、ひたすら悪くなるばかりです。ミュージシャンたちの収益源はコンピューター関係の企業のポケットに吸われてしまっています。携帯電話かコンピューターを買えば、無料同然で音源がついてきます。
ミュージシャンは、音楽を”モノ”として有効的に売るすべを奪われてしまいました。我々は、あらゆるいかがわしい状況へと追いやられてしまいました。
例えば自分の音楽のテーマが社会正義だとします。すると社会正義がそのミュージシャンの「ブランド」の大部分となります。テレビ出演などをしていると、ツイッターのフォロワー数が増え、フォロワーが十分に増えるや否や、企業らがそのブランドを借りにやってきます。それを方向転換させ、自分たちの製品を売るためのフェロモンとして利用するために。そうやって得たお金で、ミュージックビデオを作り、レコーディングの費用を負担するのです。
しかしすると、そのアルバムの裏にはNikeやApple社のロゴが入っています。こういった大企業の代役を務めるべきなのでしょうか?我々の意志作用が陰湿に移行されています。我々の収入源を自分たちのポケットへと流用し、「ラッキー」な人たちには、吸い上げた収入から、ギリギリ持続できるだけの生活資源が返還されます。そしてその餌に食いつけば、私たちの信頼性は、その企業とビジネス手法に結びつけられるのです。使い尽くされます。商品の宣伝に利用されるがだけのために、独立した次世代のアーティストとしてもてはやされます。次に加担する人と同様、私も同じ罪を犯しています。
「Drone Bomb Me」のビデオ制作費はAppleが支払いました。私にとっては実験であり、挑戦でした。もはやレコード会社はアルバムにかかる全費用の前払いすら不可能で、大掛かりなビデオにお金を出すなんて、もってのほかです。そこで悩み抜いた挙句に、Appleとのビデオ制作に同意しました。このビデオをより多くの人に観てもらいたく、その必要な援助ができるのはApple以外いなかったのです。
美容師の方以外、誰もそのビデオ制作の報酬をもらっていません。広告という形で製作した場合にかかる、ほんの一部の金額で、Appleに独占的に貸し出さなければならない製品を作ったのです。ですので、すべてがほぼ無料で制作されました。もちろん(広告と)なんら変わりはないのですが、当時はそれを認めたくありませんでした。
政治発言に積極的なアーティストとして買収された私は、Appleにとって新たに100種類もの明確な広告を出すよりも、よっぽど宣伝効果のある道具です。かつては生物多様だった音楽業界から多大な富をくすねた、ハイテク業界のファストフードチェーン型の消費者になるのではなく、あたかもAppleが最先端で、アーティストをサポートし、環境に優しく、コミュニティーと人を思いやる、革新的な開拓者であるかのような、偽のオーラを創りあげるのです。
見事でしょう?あたかも私たちがチャリティーのために働いているかのように使われ、世界的大企業のAppleは広告として持ち歩くのです。まるで抜爪された飼い猫のように感じました。これらが今の音楽業界との契約条件です。私たちはすでに、重要な芸術的表明を失っている状態にあるのでしょう。本当に自業自得ですね。
考えてみてください。フィリップモリスが世界中のダンスカンパニーのスポンサーになっているのです。呼吸と健康を賞賛するカンパニーをです。では創造的自由、独立性、そして民主制の代表だとする製品を売っているApple、Nike、Samsung、Googleはどうでしょうか。
たった一世代で忘れ去られました。森を皆伐すると、数年後の若い世代はそこに木があったことさえも覚えていないようなものです。枯れた切り株の上で遊んで育ち、それが新しい日常となるのです。いま我々が経験している資本主義の形もそれと同じ事です。トラウマはすぐにかき消され、契約のための新しい条件が必然として認められてしまうのです。
みんな、いい方向に考えようとします。今年のレコードの売り上げが3%上がったとか。しかし私たちはうまく利用されてきたのです。これが真実です。明白な宿命です。そしてミュージシャンの音源に対価を支払わされるのは詐欺だと、消費者たちは都合よく騙されてきたのです。皆そのリンゴをかじってしまったのです。もう音源にお金を払っていないという事実と、消費者が音楽を盗む為に使う機械を作る会社に大金をつぎ込んでいるという事実を、誰も繋げていません。誰もその方程式に取り掛かろうとはしません。それに触れようなら、追放されるリスクすらあります。
人々は音楽にお金を払おうとしません。
バイラルに拡散したヒット曲を持っているにも関わらず、家賃一ヶ月分すら稼げなかった若いミュージシャンもいます。少し前までは、曲が100万回聴かれると報酬が支払われました。今でもアルバムが売れていて、トップに立つほんの一握りの人たちは、アルバムをリリースする度に一からじっくり作るだけの財力と権限があります。しかしインディーズの音楽業界はもう、おさらばですね。消費者は時代の流れに乗っていると思っていますが、コンピューターの購入と共に、自分たち自身をより早い速度で拘束し、さらなる歴史的相同を推進しています。
Anohni, “6 Souls with bullet paper” (balsa wood, paper), 2016. Photo by: Philipp Ottendörfer. Courtesy Kunsthalle Bielefeld
最近私はすべての創作活動を一つのアート作品として表現しています。初期の頃のアルバム『I Am a Bird Now』の売り上げのおかげで、幸いにもマンションを買うことができました。すべてが終わりを告げる前に。私と一緒に働いてくれる人たちや、維持費の支払いのためにツアーに出ます。なので常に飛行機による放射線と、ステージ上でのアドレナリンを浴び続けている状態です。いつか自転車でのツアーをするのもいいかもしれませんね。自転車を乗り回して、図書館に来ている人たちのために歌うとか。初心に帰る感じで!
今後数年でどのように発展するか興味がありますね。先日考えていたのですが、何か惨事が起こってそのニュースの動画を見る際には、まずたいがい無神経な広告を見終えないといけません。発砲事件に関してもっと知ろうと再生ボタンを押すと、じっと「ユーモラスな」広告を見せつけられらます。
それもまた我々を中毒にさせ続ける、ほんのわずかなアドレナリン注射なのです。その悲惨な話に関してなにかするわけでもないのに、5秒間ほど虜になって、また次に進むだけの、ちょっとしたドーパミ投薬です。こうしたチープなドーパミン剤を混入された大量生産性のネタを私たちは飲み尽くしていきます…「この3分間になにか起こったかな?」と、いうように。あっぱれです。
これは思考の植民地化です。かつて我々は、戦利品や利益のために他国の資源を搾取し、他の人々から命の価値を剥奪しました。そして今度は、企業が私たちの頭脳を植民地化したのです。二度と元に戻れないように思考を再編し、神経回路を配線し直しているのです。私たちの消費が、その同意の証です。
いまの育ち盛りの子供にとって、企業のデザインしたインタフェースは直感的に理解して使用できるものです。これは伝統的な産物ではありません。イロコイ連邦の7世代の法則のようなものに従って発展したのではないのです。白砂糖のように、企業によって開発されたのです。企業によってデザインされたシステムが、心から子供の思考のためを想って作られていると、どうしたらそんな夢を見れるのでしょう?
資本主義は倫理性のシステムではありません。土地や人からの搾取を基礎とした経済学のシステムです。私たちの思考は、企業のインターフェースとシステムに依存するよう仕向けられているのです。これは営利目的のテクノロジーです。無料なものなどありません。企業が何かを無料で提供する時は、お金以上に価値のあると考えている何かを採取しているからです。
すでに、「シンギュラリティー(人工知能が人間の能力を超える概念)に辿り着け」などと、その概念をもてはやしている若い世代の人たちがいます。かつては悲惨な悪夢と考えられていた概念ですが、そのトラウマはすでに消されています。私たちはそれに反抗するべきなのでしょうが、もはや、そのすべも分かりません。へつらって、「流れに乗っておいて、より早く泳ごう」としているだけです。
これらのくだらない物事すべてを廃棄する時間があればいいのですが、そんな余裕はありません。まもなく、シュノーケルをつけずには、買い物へに行けないようになるでしょう。死海の中で、温室の潮流をプカプカ浮かぶようになるのでは、これらすべては何の役にも立ちません。いまアメリカで唯一する価値のある話し合いは、あらゆる壊れている面々同士の共依存の相互関係についてだと、私は考えます。まるでエイズのようです。潜在する免疫系欠損により、かつて「日和見感染症」と言われた症状の大流行をもたらすのです。
私が考える事といえば、女性の征服、ドローン戦争、新自由主義資本主義、キリスト教とイスラム教の原理主義、人種差別、警察の蛮行、大量監禁、異常な貧富の格差、企業主権、武器産業、化石燃料産業、化学薬品と薬剤産業、人口急増、工場農業、そして自然破壊による日和見感染についてです。
我々をここまで導いた、この破壊の根元に着手しない限り、自分たちの生物としての軌道は変わりません。これらすべてのクライマックスは、地球温暖化、生物学的多様性の崩壊、そして地球自体の最終分解です。少なくとも私たちが認識していた形からは。
しかしアメリカでは、その点と点を結ぼうとしません。点を結ぶのが大嫌いなのです。アメリカン・ドリームの崩壊が、貧困層のせいだと夢描きます。長期に及ぶ企業の明確な意図ではなく、代わりに、中国だ、メキシコ人の移民だ、無法のせいだ、あそこにいる黒人の男の子だ、彼のせいにしようと。
この国における差別や少数派の迫害についてなどは、35年に渡る経済的浸透という点へと遡って結ばない限り、その話し合いが許されています。その昔に、大多数の労働者をむしばむようデザインされた、経済構造へ繋げない限り。もしくはオバマがある日、ウォール街占拠を単独の連邦行政で一掃した点へ。
ウォール街占拠の運動は一時、アメリカ本来の姿を晒しそうになり、最大の脅威を与えました。もしもこの4年間で、この運動についての話し合いが社会やメディア上で花開くのを許されていたとしたら、私たちは今どういった状態にあったでしょう?アメリカ人が自分たち同士の間で争いを続ける限り、我々を騙すためにデザインされているこの社会の上部構造から目を背けさせられ、それに気づかないのです。
政府とメディアは、アメリカ市民としての他の国々との関係性についてを、アメリカ人に理解できないようにしてきました。この国とその企業らが中東で引き起こした多くの悲惨な死について理解し得ないのです。数々の石油戦争によって、難民危機とナショナリズムの波が誘発され、ヨーロッパの安全性を危うくしているのも。
私たちはまだ、自らが支払って引き起こした死の姿を見ていません。死体を見ていないのです。政府は彼らの行いをメディアで取り上げるのを禁じています。オバマ政権は、唯一、道徳的勇気をもってこの国の戦争犯罪を暴いたチェルシー・マニングを35年の懲役に処しました。牢屋にいるのは彼女だけです。それらの罪を実際に犯した政治家や軍士官ではありません。
いまやアメリカ人家族のほとんどは、ローンの支払いのために両親の共働きを強いられている上、さらに休日に出かけるお金がないという現実に、頭がいっぱいです。労働組合の仕事をクビになり、パートタイムへと切り替えられて、退職プランも失います。もしくは、鉱業産業が、すべてを約束するとやってきて、土地を犯し、その街の富をすべて吸い取った上で置き去りにさせたのかもしれません。その土地の石油を一滴残らず搾り取り、過ぎ去るのです。またもしかしたら、大学を卒業して10年が経った今もなお、山のような学生ローンを払っているのかもしれません。自腹で支払わなければいけない医療費用のために、借金に埋もれているのかもしれません。人生がより困難になっていると感じ、誰かがその責任を取る必要があるのです。
アメリカ先住民(ネイティヴ・アメリカン)のコミュニティーは、果敢に戦っています。この国でアメリカ先住民ほど疎外された人たちはいません。しかし今ノースダコタ州で彼らが戦っているのは、すべての人のための清浄水、未来、そして我々が依然と関わっている自然界の為です。あまりに多くの私たちが必死に超越しようとしている、または逃れようとしている、滅ぼそうとしている世界ではなく。彼らは全体像について語っているのです。先住民のコミュニティーは、全体像を考慮する数少ない人々です。彼らこそが、経験に基づいた命の価値に対する責任を、なんらかの方法で保ってきたのです。その彼らがみな揃って、「水」だと言っています。それはエビアンを指しているのではありません。
アノーニのオススメ:
- Jack Smith著「Wait for Me at the Bottom of the Pool」- 大好きな本です。
- Diamanda Galás’ - 美しいシンガーです。
- Buffy Sainte-Marieのアルバム「Power in the Blood」。
- Jerry Mander著「In the Absence of the Sacred」- 100年に渡るアメリカの広告歴史の要点を素晴らしく説明した本です。だいぶ前に読んだのですが、大変感銘を受けました。物事の考え方が変わりました。
- Nomi Ruizと彼女がする、すべての事。
- Kembra Pfahlerと彼女の一連の作品。