October 13, 2017 -

As told to Brandon Stosuy, 91 words.

Tags: Music, Inspiration, Process, Focus.

坂本龍一が語る、年を重ねるごとの作品の変化とは

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『async』は、8年ぶりのオリジナルアルバムですが、長い沈黙を経ての復帰に不安はありましたか?

8年というと約10年ぶりのアルバムになるので、そのプレッシャーはありました。一枚のアルバムに10年かかるとすると、あと10年生きられれば、アルバムを作れるのはもう一枚だけという計算です。それっきりです!そう考えると緊張しました。

しかし音楽や方向性に関してのプレッシャーは全くありませんでした。2014年にアルバムを作る予定でしたが、その年にガンが発覚しました。すべてをキャンセルし、それから2年後にこのアルバムに取りかかりました。 それまでに出来ていたものをすべて捨て、忘れて、一から始めようと決めたのです。生涯で最も死に近づいた体験をしたからです。これは大変貴重な経験で、その体験を深く掘り下げたかったのです。この体験を音楽に反映しようとしたわけではありませんが、深刻な体験だったので、なにかしら自然と反映されているでしょう。

目標や設計図を立てて音楽を作るプロセスは通常嫌いです。設計図があるのが嫌なので、いい建築家にはなれないでしょう。もちろん、設計図がなければどんな建物になるのか誰にも分かりません。まさにそれが好きなのです。自分が何を作っているのか、どんなアルバムになるのか、知る必要がありません。私が想像できないもの、これまでやったことのない、未知のものを作りたいのです。それが驚きのある、新しい体験となるのを期待しています。常にそう取り組んでいます。

いつも使うシステムや、テクニックなどはありますか?それとも毎回、音楽へのアプローチを新たに考案しているのですか?

過去にやったことは繰り返さないよう、心がけています。長年に渡って、毎回何か新しいことをしようと精一杯努力しています。特にこのアルバムではそうでした。

10歳か11歳の頃からずっと西洋音楽を勉強してきました。6歳からピアノのレッスンを始め、その他にも、作曲、テクニック、そしてバロックから現代音楽までの、さまざまなスタイルの音楽史を勉強しました。このアルバムでは、これまで学んだ事をすべて忘れようとしました。各曲、各トラック、そのすべてを生み出さなければなりませんでした。過去に、もしくは歴史上に存在したフォームやスタイルに良く似た曲になったとしてもいいと思いました。例えば自分の作っている曲がベートーベンのソナタに似ていても、それでいいのです。自分をコントロールせずに、音楽のあるがままにしたかったのです。

あなたの音楽は年を追ってより静かに、かつ広大になりました。これは自然とそうなったのでしょうか、それとも意図的なのでしょうか?

段々と密度が低くなってきたのは、2000年頃からでしょうか。それは作曲、パフォーマンス、演奏においても。10年程前、ツアー中にロンドンでのコンサートをいくつか行いました。そしてコンサートの後、現代音楽の作曲家として大きな成功を収めている友人の藤倉大と話していました。Pierre Boulz(ピエール・ブーレーズ)にも気に入られていた彼は、私の過去の作品をほとんど把握しています。私の音楽を聴いて育ったため、私以上に詳しいのです。そんな彼が、私が原曲よりもずっと遅く演奏したと文句を言ったのです。その理由を問われ、考えさせられました。昔に比べ、なぜもっと遅く演奏したいのか?するとその答えが出ました。レゾナンス(共鳴音)を聴きたかったからです。より音の数を減らして、空間を作りたいのです。沈黙ではなく、空間。その空間は止まずに鳴り響き続けます。そして膨らみ続けるその共鳴音を楽しみたいのです。そして次の音、次の音符やハーモニーが訪れる。まさにそれを求めているのです。 

歳を重ねるにつれてアプローチも変化しましたか?

3年前にガンになってからは特に、フルコンサートやツアーは難しくなりました。なのでツアーはもう出来ません。1~2時間を要するソロコンサートも難しいです。しかしこれはガンのせいだけではありません。歳をとると当然、ツアーは大変になります。特にヨーロッパでのツアーは、大抵ベッドつきのバスで移動するので、かなりの負担になります。夜中に連日、国から国へと移動するのは非常に疲れます。私はロックンローラーではないので、慣れていないのです。

また、たまにコンピレーションなどを作る際、イエロー・マジック・オーケストラを聴き返す事があるのですが、とても暴力的に聴こえてとても驚きます。これも歳と関係しているのでしょう。とてもワイルドに聴こえるのです。特に若き高橋幸宏のドラムはとてもワイルドでした。

その当時の私たちは、ドライでクールなテクノポップだと思っていましたが、いまとなっては、かなり力ずくな音楽に聴こえます。私もシンセをとても強く弾いていました。それほど強くは聴こえませんが、本当に力ずくな音楽なのです。いまはもう筋力も衰えてきたので、速い演奏をしようとは思いません。しかし幸宏はいまでもとてもワイルドです。彼とは年齢もほとんど変わらないのですが、彼はまだまだ…いや、私たちみんなまだ若いです。YMOのもう一人のメンバーの細野晴臣さんは、僕たちより5歳年上ですが、数年前に彼がミュージシャンを探しにキューバへ行った話です。そこで80歳くらいであろう高齢のミュージシャンが、バーかクラブでベースを弾いていたそうです。そのミュージシャンについて表現をするのに、「そのじいさんは豆腐を切るかのようにベースを弾く」と言うのです。

豆腐はとても優しく切らなければ、崩れてしまいます。この表現が大好きで、私もそうなりたいものです。まだそれには若すぎるでしょう。80くらいにならないと。</span>

15年後ですね。

そうですね、15年の歳月を重ねて。細野さんとその会話をして以来、歳をとるのが楽しみになりました。豆腐を切るみたいにピアノを弾けるようになりたいものです。こうしたことが、歳を重ねていく上での希望ですね。

fジョン・ケージが「4’33」を発表した年に生まれたわけですが、それは何かを象徴していると思いますか?あなたにとって、ケージの存在は重要でしたか?

とても重要です。高校に入った辺りの頃から、現代アートの影響を受けました。日本で唯一手に入るアート雑誌を読みはじめ、この雑誌を通じて、ジョン・ケージを始め、ヨーゼフ・ボイス、アンディ・ウォーホル、ナム・ジュン・パイク、そしてフラクサスなどについて学びました。60年代後半からの、主にニューヨークのアート・シーンや実験音楽にすごく興味がありましたね。また、ジョン・ケージの次の世代の作曲家、フィリップ・グラスや、スティーブ・ライヒ、テリー・ライリー、ラ・モンテ・ヤングなども聴き始めていました。またそれと同時に、メシアン、バルトーク、ストラヴィンスキーなどの、より伝統的で、アカデミックな音楽も学んでいました。なのでいわば二面性があり、それはいまでもあります。実験的な音楽は好きで、大変興味があり、自分自身そういったものをやりたいと思ってもいますが、自分の中には、同時に非常に古典的でアカデミックな部分もあるのです。

長年に渡って、様々な形の音楽、プロジェクト、コラボレーションを発表されてきていますが、今でもアイディアに詰まったりする事はありますか?それとも、もうそういった問題に当たる事はないですか?

自分を疑うことはありますよ。けれど映画などのビジュアル映像は、いつも刺激を与えてくれます。なので空の状態になってしまったときは、何か映画を観始めます。B級だろうと、C級だろうと、なんでもいいのです。B級のカンフー映画は非常に刺激的ですね。特に古く洗練されていないカンフー映画の音楽はワイルドで、ものすごく刺激を受けますね。『async』の製作中も、そういったカンフー映画を観ていました。

『async』を架空の映画のサウンドトラックという枠組みに捉えたのは、そういった背景も理由の一つですか?そのような構成を与えると共に、ビジュアルとも結びつけるというアイディアにおいて。

そうでしょうね。もちろん以前からずっとイメージやビジュアルには影響を受けてきましたが、おそらくこのアルバムは、今まで以上に特にそれが反映されていると思います。

存在しない映画のサウンドトラックを作るにあたって、どういったイメージを思い浮かべていたのですか?

主にはタルコフスキーの映画です。このアルバムはタルコフスキーの架空の映画音楽と言いましたが、これまでに実際に観てきたタルコフスキー映画のイメージやシーン、音を想像しているので、ある意味ではタルコフスキーの映画だとも言えます。

長い間ニューヨークに住まれていますが、東京に住むとの、ニューヨークに住むのとでは、作る音楽に変化はあると思いますか?

考えたことがありませんでしたが、面白い質問ですね。もしも東京に住んでいたら、『async』のようなアルバムを作っていたか?それは分かりませんね。これまでに多くのニューヨークの音を録音してきました。いまでも雨の音は録音しています。ただ驚きも減ってきたので、ニューヨーク音には正直飽きてきました。

しかしニューヨーク北部に車で行くと、当然ですが音の環境が全く違うのです。ニューヨークのような大都会などでも、それぞれの都市によって個性的な音の環境や、サウンドスケープに特徴があります。例えば、去年の7月にパリを歩き回りながら音を録りました。パリもニューヨーク同様に大きな都市ですが、その音は全く違います。録音をする行為は、釣りをするような感覚です。釣った魚を家に持って帰って、その魚を調理するような感じです。

本当にそういった感覚なのです。なのでパリでは素晴らしい魚が獲れて、とても嬉しかったです。例えば突然学校かなにかの建物から子供達の声が聞こえたりして。日本の学校には大きな校庭がありますが、ニューヨークやパリではあまり見かけません。あっても小さいものです。

なので道端で突然、子供が歌っているのが聴こえたのが、嬉しかったのです。ニューヨークで、学校から子供の歌声が聴こえてきた覚えはなかったと思います。

パリを歩いていて驚いたのは、狭い道のあちこちに、なんというか…水が流れているのです。消火栓とかではなくて、おそらく19世紀から20世紀前半くらいまでは、清掃用だとか食器を洗うためなどに使われていたのだと思うのですが、いまでは水が流れているだけです。観賞用に楽しむ以外に、誰も使用していないのです。その一つ一つが全く異なる音なので、録音しながら次々と探していくのが楽しかったですね。

どうして特に水に興味をそそるのでしょうか?

水には3つの状態がありますよね。けれどその3つの他にも、雲、霧、氷、水、雨などと、色々とあります。虹も水と関連しています。人間の身体は、その70%が水で出来ていて、この地球の表面もまた70%水で覆われています。私たちは、まるで水たまりのようなものです。ご存知の通り、そういった異なった状態の水はとても美しく映る場合もあれば、ときには、津波のようにとても凶暴になることもあります。

2011年に日本を襲った津波によって破損された、ピアノにまつわるプロジェクトがあると伺いました。もう完成されたのでしょうか、それともまだ取り組んでいる最中ですか?

まだ取り組んでいる最中です。(ピアノを)学校から購入する予定でいます。12月に『async』にまつわるインスタレーションの展示を行うので、それにこのピアノを使用できればと思っていて。世界中の地震のデータをリアルタイムで集め、MIDI信号に変換された、そのデータをピアノが演奏するというアイディアです。津波によって破損されたピアノが、この地球の振動を表す装置となるのです。

プロジェクトの完成は、何を基準に完成だと決めるのですか?またその際、成功と失敗はどのように判断するのでしょうか?

自分である程度満足した時点でしょうか。それを数値では表わせませんが、例えば、『async』をとても誇りに思います。90年代頃は、偽R&Bのような音楽を作っていました。偽のハウスや、偽のヒップホップのような音楽をも。これらはあまり満足いっていません。いっそあの時代を抹消したいとも思います。映画の音楽を作るのはまた別です。自分ではなく、他の人のためのものだからです。ソロ作品は完全に自分のためなので、自分の中での満足感、さらに上のレベルへと自分を推し進められたかどうかによって、判断するようにしています。

あなたが育った頃の日本と比べて、いまの日本に至るまでに、どんな文化的な変化がありましたか?何が主に変化したでしょうか、またその文化は進化したといえるでしょうか?

国や社会は複雑過ぎて、一つの解釈からは言い表せません。非常に進歩した部分もあれば、退化した部分もあるのかもしれません。私は大島渚監督の映画を観て育ったのですが、60年代から70年代当時の彼の映画に登場する、あの日本人役者たちの顔が恋しいです。あの顔、表情、もしくは大島映画で役者たちが描く文化が恋しいのかもしれません。ああいった表情や文化は、いまの日本には見られません。なので何かは失いました。

表現する的確な言葉やフレーズは見当たりませんが、それは強く感じます。日本人は文化的な何かを失ったのかもしれません。しかし一方で、それ以外の何かを得たのかも分かりません。テクノロジーだったり、インターネットだったり、カワイイ文化やアニメなど。

そういった表情というのは、実際に当時の道ゆく人にも見られたのですか?

はい、おそらく。日本ではもう、あのような人たちは見られなくなりました。当然私は日本語を理解し、コミュニケーションも図れますが、もはや、未知の国のように感じる事もあります。東京の街中でも、言葉はもちろん完全に理解できますが、文化や価値観はもう共有で出来ません。常にではありませんが、そう感じるときもありますね。確かに何かが変わりました。良いことか、悪いことか、それは分かりません。

Essential Ryuichi Sakamoto by Ryu Takahashi: